何のためにやるのか
思いがけず、八十八箇所霊場巡礼を始めることになりました。
いわゆる、お遍路です。
四国に住む前から、香川の両親が、お四国参りをしていたので、帰省すると、一緒に八十八箇所のお寺にお詣りしたりしていました。
両親は、70歳から始めて、既に四回回っています。
四国に住んで、いつかは…
という気持ちもありましたが
始めてしまうと、それに捉われてしまう気がして、今はいいかなと思っていた気がします。
でも、昨年、香川に引っ越してきた途端、目に入ってくる車のナンバーは、88ばかり!
とにかく8並びが多い。
気にして見てるわけじゃないんですけどね。
今回、始めることになったきっかけは、義父の希望で、八十八番札所の大窪寺に行ったので。
今年は、閏年で、閏年に逆打ち(88番から逆に回ること)すると、3回分のご利益があるという、言い伝えがある、4年に一回の年なんです。
香川に住んでから、そのことを初めて知ったのですが、昨年の終わりごろから、何度も、耳にしていて。
ちょっと惹かれはしたけど、まだ先かなあと思ってました。
ところが、今回、八十八番札所に向かう車の中で、そんなこと言ったつもりじゃなかったけど、私が言った言葉を(もはや、何と言ったか覚えてませんが)義母が、お遍路を始めると私が言ったと勘違いして、「始めるんか?」と言い、
え、そんなこと言ってないけど
と思ったのは、一瞬のことで、次の瞬間に
「せっかくだから、始めようか」
の一言で、ダンナサンもすんなり受け入れて、2人でお四国参りを始めることになりました。
八十八番札所、大窪寺で、納経帳を買うと
なんと逆打ち用の納経帳でした。
その他のお遍路道具は、大窪寺には、揃ってなくて、外のお店で買うか、一番札所か、善通寺で揃うと聞き
ダンナサンは、お店屋さんのじゃなく、お寺の売り場で買いたいと言い
その日は、八十六番まで回って
後日、一番札所に行きました。
ここで、私の中で、色んな葛藤がありました。
小さなことなんですけどね(笑)
逆打ちで回るのに、一番に行くと逆打ちの意味がない
でも、八十八箇所巡礼は、順番に拘らずに、どう回ってもいいんです。
逆打ちの年でも、一番から順に回ってもいいだろうし、途中の札所から始めても良くて、
順番がばらばらになってもいい
何のためにお詣りするのか
ダンナサンに言われたのだけど、それは、私もわかってるんです。
順番が大事なのではないと。
でも、いきなり一番に行くことへの抵抗が顔を出す(笑)
これが、善通寺なら、良かったかも。
逆打ちってことは、最後に一番にお詣りするということなのに、いきなり、先に一番にお詣りするなんて>_<
という思いが出てくるのです。
徳島の鳴門にある一番札所霊山寺に行きました。
お詣りもしたし、お道具も必要なものだけ、揃えました。
暑さで疲れて、家に帰って爆睡
寝てる間、私の中の、小さなつまらないこだわりが、色々顔を出し
それって、何かを獲得したいというエゴなんじゃないのかなと思いました。
私の中に、何かを獲得したい思いなんて、あると思ってなかったけど
つきつめていくと、獲得したい思いなんじゃないかと。
そんなことに縛られている自分が
すごく不自由で、心をほんの、ほこり程度の重みであっても、何か煩わせているのだと思うと、ばかばかしくなって、
だからといって
こだわるのをやめよう!
えいっ
と手放すのではなくて
小さいことにこだわってるなあ
ばかばかしいなあ
って、自分のことを苦笑しながら眺めてました。
お寺でもらった『逆打ちのいわれ』によると
昔、過去の自分の非道を、お大師様(弘法大師)に懺悔し、お詫びしたい一心で、お遍路に出た人が、なかなかお大師様に出会えず、最後(一説によると21回目)に逆に回ってみたものの、それでも叶わず、行き倒れてしまった時、後ろからそっと抱き抱えてくださったのが、お大師様だったという話から、逆打ちするとお大師様に会えるという言い伝えが始まったそう。
でも、逆打ちしたから出会えたのではないんですよね。
きっと、はじめから、お大師様は、自分と共にいてくださった。
追いかけても、求めても、手には入らなくて
すべては自分の中にある
お遍路する
ということは
何かを得るものではなく
何かになることでもなく
ただ、自分とひとつになる
気づいていく
そういうことなんですよね。
何事にも言えること。
すべては自分の手の中に。
自分とひとつになるために
自分に気づいていく
つまらない小さなこだわり
自分を不自由にしてるもの
自分のクセのようなもの
自分の中のめんどくさい部分
小さな枠
それがあることが悪いわけではなくて
ばかばかしいけど
めんどくさいけど
つまらないことにこだわってる自分を
ちょっと変わってるけど憎めない友だちのように
愛おしむ
自分を不自由にしてたなあ
って気づく
そうしてるうちに
必要のなくなった
慣れ親しんだ古い自分は
昇華していくのでしょう。
逆打ちの言い伝えになった人が、お大師様に、出会えたのが、丙申の閏年だったことから、今年2016年は、60年に一度の特別な年だという説もあるみたいです。
お寺でもらった説明にはなかったので、ほんとのところはわかりませんが。
順序や形も関係ないし
特別なんてないと思うけど
そういう年に始めることになったのは
なんだか、ありがたいご縁だなあ
って思います(^-^)
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